私は文章しか書けない

http://bluenwhite.hatenablog.com/entry/2017/01/28/075235

やあやあ、今日が始まるぞ。準備はできたかい?

早朝の繁華街は夜とはとうってかわって静かで、路駐する車両が歩行者より多くなる。道路脇に車を停められたタクシーでは、運転手のおじさんが上半身をねじ込んで後部座席の掃除をしている。その少し先にあるコンビニの横にはトラックが停められ、開け放たれた背中のドアからは、食料品なんかが詰まったプラスチックのケースがせっせと運び出される。

 

こういう、これから始まる一日を、きちんと迎えるための準備みたいなものを見ているのが好きである。さあ今日も一日が始まるぞという感じで、とても気持ちがいい。どこまでも連続して不断に、相も変わらず同じように、ただ繰り返されるだけに思える毎日には、然るべき段取りがきちんと内包されている。それがなくなってしまえば、タクシーはとても清潔とは言い難くなり、コンビニは常に品薄になる。

 

やあやあ、今日が始まるぞ。準備はできたかい?

ある種の特別な風が吹いて

 

2月終わりに、特別な風が吹いた。真正面からおもむろに受けると雪が針となって突き刺さり、顔が真っ赤に腫れてしまうほどの突風だ。これは単なる強風ではないなと思った。それがどのようなものかは分からないけれど、これから何かが始まる(同時に何かが終わる)ただならぬ意志を感じずにはいられない、ある種の特別な風だった。

 

その翌日から、太陽が顔を見せるようになった。居座りつづけた灰色の雲は重い腰をあげ、ぐっと気温が上がり、路面の雪は解けて茶色のシャーベット状になって広がった。そしてその夜、空に星を見た。いったいいつぶりだろうか、思い出せないほど長い間、星空を見ていなかった。とはいっても繁華街。見えるのは北斗七星くらいである。でもこれは(大げさでなく)マウナケアの山頂から見る星空にも負けないほどの、胸を打つ何かがあった。人の幸福や感動というものは、第一に相対的なものなのだ。

 

札幌の冬は長く、静かで暗い。さえない曇り空と冷たい降雪がだらだらと続く。これは北向きのマンションの一室で電気をつけずに毎日を過ごすような感じで、かなりパッとしない。春が来る。北国でむかえる春というのは、こんなにも喜ばしいものなのかと、私はただ、驚いている。

コーチ柄のショルダーバック

有名ブランドのバックが目立って浮いた、ちぐはぐな恰好をした人を見かけることがわりによくある。この間はファー付きのカーキ色のダウンコートにダボッとしたジーンズを履いて、足元は明るい茶色のトレッキングシューズ、という中年の男性に出会った。服装はあくまでラフでカジュアルなのに、肩にかけられたコーチ柄の黒いショルダーバックがやたらに目につく。

 

そういう人を見かけると、ううむ、文脈的にはマッハンポーテージのバックパックではないだろうか、とひそかに首をひねったりする。これはまた別の意味ですごく気になってしまう。どこからどこまでが彼自身の意志で為されたのか、という疑念である。だって、コーチ柄のショルダーバックを自ら好んで持つ人は、これは男女関係なく、身体のラインを強調するようなシルエットでそれなりにキメた装いをしているもの、ではないでしょうか。

 

まず一番に考えられるのは、奥さんからの贈り物である。築50年の一軒家で迎える日曜の朝。ひとり黙々と掃除機をかける女性の横顔からは喜びはおろか、苦労も読み取れない。ただ同じように過ぎる平和で退屈な主婦の日常につきものである、ゴロゴロと寝てばかりいる夫。いつしか若い頃のようにくいっと裾を引っ張っりながら、どこか遊びに連れてってなんてお願いすることもなくなった。

 

ふと部屋の隅に、使い古されくたびれた様子のショルダーバックが目に入る。すると言い様のない変化を切望する感情におそわれる・・・。そういえばもうすぐ夫の誕生日だった。そうだバックを買ってあげよう、それもブランド物のとびきりセクシーなバックを。そうこれからの新しい私たちの関係を象徴するような…。なんだかドロドロした展開になってしまいそうだから、このへんでやめておこう。

 

コーチ柄バックのおじさんには今朝も会ったけれどラフな服装でボケっと信号を待っていて、あいわらずコーチ柄のショルダーバックだけが妙に浮いていた。やはり見るほどに似合っていない(失礼だ)。何にしてもやはり、当人の身の丈にあっているということ、が一番だなと思う。

退職の切りだし方

退職の切りだし方はむずかしい。恋人に別れを切りだすよりずっと、むずかしい。なぜならそこには責任というものに付随する、しかるべき配慮が求められるからである。もうこれっきり、あとのことは残った人たちで、煮るなり焼くなり好きにして、といった姿勢はなかなかできない(実際にはそういう人もいるけれど)。だって、担当者がいなくなったからといって、仕事も一緒になくなる訳ではないから、結局は残された人たちに、訳の分からない仕事が突然ふりかかる、という不幸な末路をむかえる。これはもし逆の立場だったら、たまったものじゃない。だから、きちんと後任の公認をもらってから立ち去りたい、そう思う(つまらないですね、すみません)。

 

次にこの一件をだれに、どのように切りだすべきか、という問いが生まれるけれど、まずは業務の采配を持つ上司に、心が決まったらすぐに、退職時期・後任者の相談という形で、切りだすのが正当じゃないかと思う。すべては後任者への配慮のもとに、である。そんなわけで(どんなわけだ)私は今日、うまれて初めて、上司に退職を切りだす。

 

初めてというものには、おのずと漠然とした緊張と不安がともなう。私は今の仕事を始めてから、数々の初めてを経験した。初めての路上運転、電話対応、営業活動、取材・広告作成、講演会での成果発表、冬場の雪道運転、畑仕事、ひとり暮らし。根が臆病な私は、初めてが訪れるたびに、その先に何か大きな不幸が待っているのではないかと、未知なる機会におそれおののいた。

 

でもね、結局は何も起こらなかった。ただ後に残るのは、小さな自信だけ。だから、退職を切りだすという機会を前に考えることは、高ぶる気持ちを「なだめすかせ」ということだけである。それが一番の正しいあり方だという、ありありとした実感が私にはある、というか経験から学んだ。初めての機会にひょいと飛びこみ、おそいかかる緊張感と不安ととっくみ合いながら、なんとかなだめすかせたその後には、目の前に新しい地平線が広がる。これは私にとっては大きな喜びです。

コミュニケーションのゆくえ

みなさん会社は楽しいですか?私は同僚とのコミュニケーション自体に楽しさを求める人間なので、今の会社における関係性は、なんだか儀式的なところがあって少しつまらないなと思う。それはよく訪れるマックの店員さんとの関係性に、とても似ている。どういうことかというと、共通の目的を達成するための、効率性を優先したコミュニケーションがあたかも儀式のように執り行われるということです。

 

たとえば私はマックに行くと必ずホットカフェラテを注文する。私が200円を差し出すと、店員さんはお待たせしましたと言ってカフェラテを渡してくれる。当たり前といえばそれまでなのだけど、そこではほとんど毎日、おなじやりとりが繰り返される。それが私と彼の関係性のすべてで、それ以上もしくはそれ以下のコミュニケーションはない。これは、安定的均衡点に落ち着いたのだという感じがある。

 

会社でもだいたい同じだと思う。同僚とのコミュニケーションは、おはようございます、お昼行ってきます、お先に失礼します、といった挨拶の応酬に、ときどき、お昼ごはんの内容についてとか、体調は大丈夫ですかなんていう、気遣いの会話も挟まれたりするけれど、基本的には毎日のコミュニケーションが、それ以下に削られることも、それ以上に深まることはなく、(そしてたぶん個人的な興味の有無にかかわらず)同じように繰り返される。

 

なんだか味気ないなぁと思うこともあるけれど、これらはとても理にかなった、効率的なコミュニケーションで、それ以上を求めるほうが無粋、あるいは単なるエネルギーの浪費なのかもしれないなと思ったりもする。だって、マックではカフェラテを飲むこと、その対価をもらうこと、会社では業務を効率的にこなすこと、が第一の、そして唯一わかりやすく、私たちが簡単に共有できる、コミュニケーションの目的だからだ。第一に私がマックの店員だったら、すべてのお客さんに無駄話を持ちかけられても困ってしまう。

 

そうキッパリと、割り切ってしまうことが、ひとつに、大人になるということなのかもしれない。でも私には、どうしてかは分からないけれど、無駄で非効率的な、コミュニケーションの遊びのような部分が必要である。それがないと、なぜだか精神的な幸福感を得ることができない。それなのに周囲は、(もちろん同等ではないにせよ)効率性を優先して無駄な部分をそぎ落としながら、確実にスピードアップしているなと感じる。ふう、いったいぜんたいどこにむかっているのだろう、とすすきの中心街でカフェラテを飲みながら思う。

黒い服を着た、おじさんたちの集会

ある田舎町の有力者が集まる場面に立ち会ったことがあって、例えば地方議員だとか観光物産協会の理事だとか、要するにみんな50歳以上のおじさんの集まりである。黒い服を着たおじさんたちは、本当に爽やかさのかけらもなくて、あのとき会議室では体重計のメモリ半分くらいは、ずしっと空気が重たくなったに違いない。

 

隣にいる上司は、おじさんたちにむかって事業の有益性について、とても熱心に説明したんだけれど(ちなみに彼も立派なおじさんである)、誰もが押し黙りを決めこんだ。まるで、真っ黒な一口大の鉄塊を無理やり口に押し込まれているような、息の詰まる沈黙である。いやはやこういう場面は日本全国、どこの会議室でも珍しくないと思うけれど、いったい黒い服を着たおじさんたちは、こういう時に何を考えているのでしょう。

 

あまりの息苦しさに耐えかねて、私の頭のなかではビル・ヘイリーのロック・アラウンド・ザ・クロックが流れ始める。おじさんたちは黒い上着を脱ぐと、ポケットからおもむろにカラフルなネクタイを取り出す。そこに20代半ばくらいのミニスカートをはいたかわいい女の子たちがやって来て、おじさんたちのコルベットサンダーバードにのりこむ。おじさんたちはすごく爽やかな感じで女の子の肩に腕をまわして、夜の町へ繰り出す。なんてことになればいいのにね。

 

社会人として仕事をしていると、見栄や権力が交錯する異様な世界に出くわすことがあるけれど、できるだけこうした場面には立ち合いたくないなと思う。黒い服を来たおじさんたちの集会は、私をひどくみじめな気持ちにさせるもののひとつです。でも本当にどうして、黒い服を着たおじさんたちはあんなに空気を重苦しくするのだろうか。誰かわかる人がいたら、こっそり教えてください。

人情について思う事

人情について思うとき、田舎町の小さな給油所と傷だらけの中古車、手持無沙汰な従業員の姿がまっさきに頭にうかぶ。

 

先日、田舎町にある小さな給油所で車をレンタルしたら、傷が14個もある中古車がでてきた。田舎町といっても乗車手順はおなじで、従業員に「ここに傷があります」と教えてもらいながら車体の傷を確認する。だけど、なんせ14個も傷があるから、従業員もそのうちよく分からなくなってしまって、「まずはここ」「それからここ」「あとは…これかな?」なんておかしな具合になる。

 

とはいえすべて見つけないと出発できないから、なんとなく客も一緒になって傷を探すハメになる。「えーと、それから…」「あ、それじゃないですか?」なんて調子で真剣に探す。これは経験してみないと分からないと思うけれど、実際すごく変なかんじだ。

 

そのうえ従業員には、お客さんを待たせてはいけないなんて気遣いはミジンコほどもない。むしろ暇をもて余していたくらいだから嬉々とした様子である。これは忙しい人にはたまったもんじゃない(幸い、私も暇でした)。

 

チェックを終えると「少しくらい(傷が)増えてもお金いらないよ」と手をふって見送られ、返却したら「よければ最寄り駅まで送りますよ」なんて世話を焼いてくれる。そんな具合だから、市街地のタイムズやトヨタに慣れている私にはもう本当に変なかんじである。

 

でも、彼はすごく自然な感じでおせっかいを焼いてくれて、これはいつも忙しそうにしている人々にはなかなか真似できるものではないです。これをどう捉えるかは人それぞれだけど、こういうのを人情というのだなぁと思う。