ためになる言葉を血肉にする 個人的試みの場としてのブログ

http://bluenwhite.hatenablog.com/entry/2017/01/28/075235

黒い服を着た、おじさんたちの集会

ある田舎町の有力者が集まる場面に立ち会ったことがあって、例えば地方議員だとか観光物産協会の理事だとか、要するにみんな50歳以上のおじさんの集まりである。黒い服を着たおじさんたちは、本当に爽やかさのかけらもなくて、あのとき会議室では体重計のメモリ半分くらいは、ずしっと空気が重たくなったに違いない。

 

隣にいる上司は、おじさんたちにむかって事業の有益性について、とても熱心に説明したんだけれど(ちなみに彼も立派なおじさんである)、誰もが押し黙りを決めこんだ。まるで、真っ黒な一口大の鉄塊を無理やり口に押し込まれているような、息の詰まる沈黙である。いやはやこういう場面は日本全国、どこの会議室でも珍しくないと思うけれど、いったい黒い服を着たおじさんたちは、こういう時に何を考えているのでしょう。

 

あまりの息苦しさに耐えかねて、私の頭のなかではビル・ヘイリーのロック・アラウンド・ザ・クロックが流れ始める。おじさんたちは黒い上着を脱ぐと、ポケットからおもむろにカラフルなネクタイを取り出す。そこに20代半ばくらいのミニスカートをはいたかわいい女の子たちがやって来て、おじさんたちのコルベットサンダーバードにのりこむ。おじさんたちはすごく爽やかな感じで女の子の肩に腕をまわして、夜の町へ繰り出す。なんてことになればいいのにね。

 

社会人として仕事をしていると、見栄や権力が交錯する異様な世界に出くわすことがあるけれど、できるだけこうした場面には立ち合いたくないなと思う。黒い服を来たおじさんたちの集会は、私をひどくみじめな気持ちにさせるもののひとつです。でも本当にどうして、黒い服を着たおじさんたちはあんなに空気を重苦しくするのだろうか。誰かわかる人がいたら、こっそり教えてください。

人情について思う事

人情について思うとき、田舎町の小さな給油所と傷だらけの中古車、手持無沙汰な従業員の姿がまっさきに頭にうかぶ。

 

先日、田舎町にある小さな給油所で車をレンタルしたら、傷が14個もある中古車がでてきた。田舎町といっても乗車手順はおなじで、従業員に「ここに傷があります」と教えてもらいながら車体の傷を確認する。だけど、なんせ14個も傷があるから、従業員もそのうちよく分からなくなってしまって、「まずはここ」「それからここ」「あとは…これかな?」なんておかしな具合になる。

 

とはいえすべて見つけないと出発できないから、なんとなく客も一緒になって傷を探すハメになる。「えーと、それから…」「あ、それじゃないですか?」なんて調子で真剣に探す。これは経験してみないと分からないと思うけれど、実際すごく変なかんじだ。

 

そのうえ従業員には、お客さんを待たせてはいけないなんて気遣いはミジンコほどもない。むしろ暇をもて余していたくらいだから嬉々とした様子である。これは忙しい人にはたまったもんじゃない(幸い、私も暇でした)。

 

チェックを終えると「少しくらい(傷が)増えてもお金いらないよ」と手をふって見送られ、返却したら「よければ最寄り駅まで送りますよ」なんて世話を焼いてくれる。そんな具合だから、市街地のタイムズやトヨタに慣れている私にはもう本当に変なかんじである。

 

でも、彼はすごく自然な感じでおせっかいを焼いてくれて、これはいつも忙しそうにしている人々にはなかなか真似できるものではないです。これをどう捉えるかは人それぞれだけど、こういうのを人情というのだなぁと思う。

雪について思う事

雪について思うとき、静けさと寂しさの隣に生きているという実感がある。生まれてこのかた25年、雪の降らない町に住んでいたものだから、北海道でいつもよりすこし多めに雪が降って、道路わき2mの雪壁とか、車上30cmの雪のかたまりを目にすると、これはもう重大な災害だという心持ちになる。

 

そんな時たまたまテレビ画面に、ぴかんと晴れて雪どころか雲ひとつない故郷・東京が映されると、こんなところにいたら平和ボケしそうだな、なんて思う。冬の北海道のピリッとした空気や、あらゆるものを飲み込ようにシンシンとふりそそぐ雪がけっこう好きである。薄汚れた壁面を真っ白なペンキで塗り替えるように、不格好な街並みや私の小さな悩みを否応なしに洗いながしてくれるような気がするのだ。

 

そういえば東日本大震災が起きたときの感情について、もうハッキリとは思い出せないのだけれど、悪意のない自然の営みによって人や町が次々と飲み込まれる様子をテレビでながめていて、恐怖と憐れみのかたわらどこかで嬉々としたように思う。日常は嫌になるほど平和で、私たちいつもどこかで変化と刺激を求めている。そんな身勝手な感情をあざ笑うかのように北の大地には今日も雪が降り注ぎ、人々はただ粛々と生きている。

村上春樹のコラム集

村上春樹さんの文章がすきで、だいたい1日に1回くらい著書をひろげる。しかもコラム集ばかり。小説はずいぶん前に1冊読んだきりである。コラムの良いところはなんといっても1話2~3ページくらいで気楽に読めること、そして村上さんの人生観や生き方が飾り気なく記されていることだ。

 

内容は村上さんの好きな音楽や映画のウンチク、トカゲ社会の苦悩、繰り返し切符を失くす話(これには共感した)などで、基本的に教訓みたいな立派なものはない(失礼だ)。なんでもないような出来事を彼なりの見方でじっと観察して、そのものなりの愉快さを見つけてしまう。そうして気づけば、村上さんのごく個人的な体験を身近に感じながら、そうそうと頷いたりしている。

 

そういえば村上さんはあるコラムで「文章には“内容とスタイル”が必要で、これは要するに“生きること”そのものである」というようなことを言っていたけれど、なるほど彼の生き方そのものが「まぁなにごとも愉快にやろうよ」という感じに肩の力がぬけて心地よいのである。

 

なんだか良いところばかり思いあたるけど、実際には「うわー、変な人だな」だけで終わるコラムも多い。特に切符をしまう場所を考えた末に耳にいれて歩いた話とか…。だけどそれも含めて愉快である(結局、ほめてばかりでした)。

 

ちなみに職業的なコラムの書き手をコラムニストと言うけれど、たぶん村上さんは経済的にも意識的にもコラムニストではない。でも今のところいちばん読みたいコラムを書いてくれています。

レタスの話

自転車の荷台にダンボールをのせたお兄さんとすれ違った。ダンボールには緑の字で「グリーンカール」とかかれていた。グリーンカレーならぬ「グリーンカール」。気になって調べてみたら葉先が丸い形をしたレタスのことだった。

 

レタスといえば私はレタスが好きである。大きな葉がくるりと内気に丸まった玉レタスがメジャーだけれど、個人的には赤紫色で苦みのすくないサニーレタスが好きです。軽く炒めたじゃがいもと鶏肉を、新鮮なレタスにのせてバジルチーズ味のドレッシングかけるだけ。それと白ワイン。すごく幸せな気分になる。

 

北海道に移って1年目の夏は、農家の手伝いをしてはレタスをもらってきて、夏から秋にかけて毎日のようにレタスを食べた。本当に新鮮なレタスというのは葉を噛むとほんのり甘い水がじわりとに口に広がる。うまく言えないけれど、砂糖水とは違うエネルギッシュな味がして、ついさっきまで生きていたことがハッキリとわかる。

 

ちなみに葉先がギザギザしたフリルレタスもよくもらったけれど、これはやや険のある見ための通りに水気が少なくてイマイチだ。なんたってレタスは、とれたてのみずみずしいのが一番である。

遠距離恋愛のミカタ

私と彼は、東京と札幌にはなれて生活するようになって1年半になる。いわゆる遠距離恋愛というやつだ。同僚からは決まって「寂しくないの?」と聞かれるけれど、これがそれほど寂しくない。

 

そもそも私は周りにあるものでそれなりに自分を満足させることが得意な人間だし、今どきはスカイプというインターネットサービスを使えば、いつでも顔をあわせて会話ができる。ハイテク、ハイテク。

 

どんな会話をするかというと「太ったんじゃない?」とか「髪切ったねー」とか、本当にあたりさわりのないこと。時にはなにも話さず、しばらく画面をはなれて洗濯を干したりする。まるで同じ部屋にいるように、すごく自然な感じで場の空気を共有できる。

 

そういえば遠距離恋愛の効用として「会ったときに気持ちが盛りあがる」と言う人がいるけれど、感動的な再会シーンはこれまでに一度も経験がない(一度くらいしてみたい)。半年ぶりに会っても、「なんだか久しぶりな気がしないね」という感じで顔を見合わせ、すぐに肩をならべて歩きはじめる。

 

そうそう効用といえば、小さなことで喧嘩することがなくなった。不思議なことに、男女関係は相手をよく知らないときのほうが上手くいく。恋愛初期の、互いを探りあう段階は特に楽しい。巷のうわさは様々だけど、遠距離恋愛、案外いいですよ。

 

 

「これしかできない」

ある平日の昼過ぎに山奥のカフェで人と会っていたら、彫刻家の安田侃さんが現れた。別に仕事をさぼっていたわけではない。そもそも、きちんと仕事をすることとカフェでくつろいだ気分になることは両立できるのだ。

 

そこで何をするでもなく暖炉の前にいる侃さんに、ドキドキしながら声をかけたら、なんとなく彼の自宅兼アトリエに誘われてしまった。ふと目に留まった道端の小さな花を摘んで帰るみたいに、得体の知れない人間を家に招いてしまうなんて、芸術家はわりにひまな職業なのかもしれない。

 

もちろん私は仕事そっちのけでついて行った。これは誰になんと言われようが仕方ない。著名な芸術家には口説き文句なしで女性を自宅へ招き入れてしまう、ある種の特権的な魅力がある。

 

制作途中の作品がならぶアトリエを手持無沙汰にうろつきながら思ったことは、飽き飽きするくらいにどれもこれも表面がつるっとした空豆みたいな形をしているということだ(失礼だ)。不思議に思って聞いてみると、曰く「これしかできない」そうだ。

 

なるほど、英語ができて、中国語もできて、さらにプログラミングまでできる「なんでもできる」人より、案外「これしかできない」から「こればかりやる」人の方が、長い目で見ると特定の分野に詳しくなったり、ひとつの技が磨かれたりして、頭角をあらわすものかもしれない。

 

ちなみに私は「人前で上手く話せない」「金儲けができない」「社交辞令が言えない」とできないことはいくらでも挙げられそうだけれど、逆に「これしかできない」を見つけるのは意外と難しいものである。ともあれ「これしかできない」という生き方はすごくシンプルでカッコいいよね。